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先週の説教より

「強盗の巣にしてしまった」 マルコによる福音書11章15-19節(2/21説教)

 主イエスはエルサレム神殿で「宮清め」をされた時、こう人々に語られました。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」(17節)と。この後半部「~強盗の巣にしてしまった」はエレミヤ書7章11節「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。~わたしにもそう見える」からの引用です。

 「強盗の巣」とは、エルサレム神殿で商売をして不当な暴利をむさぼるという意味で言っているのではありません。エルサレム神殿での「商売」は、動物を犠牲として献げる祭儀礼拝を律法に従って正しく行うためにこそ必要不可欠な行為でしたから。従って、主イエスは神殿での商売を問題にしているのではなく、祭儀礼拝そのものを批判しておられるのです。律法に従って正しく祭儀礼拝を行っていれば、それで「救われた」(エレミヤ7章10節)と神の救いを安易に前提する考え方を批判しておられるのです。

 なぜなら、神の救い(主キリストの霊的臨在)はいかなる意味でも人間の業によっては与えられず、ただ神の自由な憐みの恵みによってのみ与えられるものだからです。この神の自由な憐れみの恵みを無視して、自分の業が律法に適っているから神の救いは当然であり、自分は神から祝福され救われていると考えることは、神の恵みを強引に奪い取って自分のものとする「強盗」の所業である、と主イエスは言っておられるのです。主イエスの十字架と復活に基づく救い(主の霊的臨在)は、私たちの悔い改めの祈りに神が憐れみをもって答えてくださる時にのみ与えられる神の自由な恵みなのです。

牧師 柏木英雄